フィリピンでの体験
フィリピンでの体験は、自分の幸せを一番に願っている神様との出会いでした。それは私から神様へ捧げた祈りへの答えでした。洗礼を受けてから一年の間、自分の生活は神様を中心に動くようになり、気づけば交友関係や価値観も大きく変わっていました。同時に、この変化についていけずに傷ついてた私にとって希望だったのは神様に自由を捧げて生きる奉献生活という在り方でした。宣教師に同伴してもらいながら、恋人や友達、そしてアルバイトでの自分の在り方を見直して、毎日の中で愛を選択するのに壁になっているものや人は何か考えながら、自分の環境を変えたいと感じました。自分の価値観が社会的な価値観から、カトリック的なものになっていく幸せは、同時に神様が沈黙している様にも感じられる時でした。このプロセスの中で、洗礼から4ヶ月を過ぎた頃に、小学生の時に出会ったアフリカで宣教活動をしていたシスターの笑顔を思い出しました。自分の幸せは、もしかしたらイエス様に従い全てを捧げていくことではないかと強く感じるようになっていました。しかし、自分の希望ならば人間の声は間違えることもあるので、何年かかってもいいという心持ちでイエス様のサインを待っていました。そして、驚くことにその答えはフィリピンで受け取ることになりました。
2年前に参加したミッションで出会った韓国人の宣教師クリスティーナとの再会の中で、私は彼女の召命について聞くことができました。クリスティーナの話は自分がイメージしていた召命よりsubtleで、聖人の話のように遠く感じることがありませんでした。そしてまさにクリスティーナの体験した、十字架から目が離せないということが私にも起こりました。ホームステイや子供達と遊んで、素晴らしい愛の時間を過ごした後に、ソクラテス司教様とお会いしました。ソクラテス司教との対話の中で印象に残ったのは、今持っているものを手放さなければどのようにして欲しいものをつかむことができるだろうかという、知恵の話でした。
そして、司教様との面談の後にカテドラルで祈っていた時です。日本と韓国の男の子たちが率先してひざまずいて祈っていたので、渋々私もイエスに向かいました。私は十字架の上のイエスに、なぜあなたは私の自由を受け入れてくれないのかという不満を打ち明けました。その直後に、カテドラルの右の部屋に、横たわるイエス様の人形を見に、韓国人のミッション友達レアと行きました。レアは、たくさんの人が祈っている中で私たち参加者がイエスの手に触れられるように箱を開けてくれました。目を閉じて平和な表情のイエス様のはりつけの傷を抱えた身体が、紫のローブに包まれているのを見て、私は驚きました。そして彼の手の傷に触れた時に、イエスは生きている男の人だ!そして、私はこの人のことが好きになってしまったのだ!と感じたのです。再び、十字架の上のイエスを見て前を通るためにお辞儀をした時、もう前の自分には戻れないと確信しました。そしてカテドラルを出る時に、マリア様にこうお願いしました。お母さん、私が自分に用意された道を歩めるように、家族や友達にどう言われるのかと恐れている私の貧しい魂の面倒をみてください、と。こうして、私は自分の自由をイエス様に受け取っていただくことができたのです。
この体験は、信仰のあるフィリピンという土壌だから私に起き得たと思いますし、私の努力や祈りはこの答えを見つけるための一部分の働きでしかありませんでした。絶えない笑顔でいる、フィリピンのセルヴィーユースにも深い闇の体験があることを私は知っていますし、フィリピンのかわいい兄弟姉妹への愛が私の”自由”を自分か手離して、イエス様に捧げる勇気に変えてくれました。そして、この新しく得た”自己のない”愛という生き方は本当の自由であり、本当の深い幸せを感じさせてくれるものです。十字架のイエス様の傷を、今すぐに手当てしたいと思うから、私はこれからもフィリピンの友達のために十字架のイエスの前で祈り、イエスの眼差しを日本のみんなに伝えたいです。アジアの宣教師とパンガシナンの皆さん、そして日本と韓国からの参加者一人一人に感謝します。
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